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疑ってかかるということ。
It seems that I'm getting into "I hate it all!" phase.
(↑これは単なる愚痴。)

みんながみんなそうではないけれど、異文化を語るときに自分の物差しでしかものごとを計らず、AでなければBであると決め付け(どうして何事も二者択一だと思いたがるんだろう?)、自分の理解できないこと(それともしたくないことなのか、受け入れられないことなのか)はすべて偽善だとか誤りであると決め付ける。そういう「意見」を読むたびにイライラが募る。
そういう人に限って、相手や第三者をこき下ろすのも貶めるのも平気なくせに、自国の文化に対して少しでも批判されるとヒステリックになって反論する。

Hypocrisyと言い放つ人間こそ、その呼び名にふさわしい気がしてしまう。
こうした偏狭さやself-righteousnessというのがとても嫌だ。

ストレスの原因になるとわかっているのにそういうものを読んで腹を立ててる私も私だけどね。読まなきゃいい、のだ。(ばかみたい。)


ものごとの価値というのはたいていの場合、絶対的なものではなくて、相対的なものだと思う。
世界のあちこちで起きている紛争ひとつとってみても、過去の戦争を考えてみても、「さあ、俺たちはこれから悪いことをするぞ!」といって始まったものなんてあるんだろうか。それぞれが「大義名分」を掲げている。「正義」なんていうのは一番胡散臭い言葉で、「いったいそれは誰にとっての何の正義なのか」というのをよく考えようとしないと騙されてしまう。「自由」とか「解放」なんていう言葉も疑った方がいい。

ものごとが正しいかどうかなんて、そう簡単には言えない。

正しいのかどうか簡単に判断できるのは、極々少数の、究極の問いともいうべきことくらいかと思う。少なくとも私にとっては。
たとえば、「人を殺すな」とか、「盗むな」とか。
(モーゼの十戒みたい。)

ものごとの動機にしても、100%善とか100%悪というのもあまりないんじゃないだろうか。
特にそれが集団(国とか民族とか政治とか)に関することであるときには。
「正義」(←というのもかなり怪しい)が第一義として前面に押し出されていたとしても、その後ろにはいろんな思惑があるものだと思う。

人間だってそう。いい人間と悪い人間、なんてそう簡単に言えない場合が多いのじゃないだろうか。「善きもの」も「悪しきもの」も同時に内在する。





私がどうしてそんなことを思うのか。

こうしたことは、以前Asne Seierstadの
"The Bookseller of Kabul "を読んだときにしみじみ感じたことだ。
Amazon.co.jpで調べてみたら邦訳がでていた。
アスネ・セイエルスタッド『カブールの本屋―アフガニスタンのある家族の物語』

Amazonの紹介ページの煽り文句はいただけないけれど、とてもいい本だ。
あちこちで女性差別を内側から描いた問題作、と紹介されているけれど、私はそれだけで終わらせたくない。
女性であるというだけでいろいろな権利を奪われるべきではないというのは確かにそうだけれど、それを「解放する」というのは難しい。たとえば、ブルカは女性を縛り付けるものであるけれど、同時に女性にとっての隠れ場所でもあるのだ。全ての女性を解放するというのは、好むと好まざるにかかわらず全ての女性からブルカを剥ぎ取ることではない。それでもブルカを被りたいという女性にはその選択肢を残すべきではないのだろうか。実際にブルカの中で生活した筆者だからこそ、こうしたことを感じさせてくれるのだと思う。(この本の中で筆者は自分の見聞きした、あるいは体験した事実を淡々と書いていて、それに対する「評価」はあまり書かれていない。)

自由や解放を語るとき、「善きことを行う」という行動に酔いしれて、勢いあまって自分の価値観を押し付けてしまいがちなのではないだろうか。「それは正しくないから、正しいことを教育しよう」というのは相手の価値観や文化に対する理解がないと単なる傲慢、押し付けでしかなくなってしまう。

・・・などとくどくど書くのは、私自身、ものごとを自分に問うということを忘れてしまいがちだから。
こういうことを書き始めると、とりとめがなくなるというか、収集がつかなくなる。う~ん。
by bramble | 2006-07-28 11:35 | 思う・考える
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